尊徳の生きた時代

尊徳が生きた時代、それはいったいどのような時代なのだろうか。

一言で言えば「激動の時代」。江戸時代最大規模の飢饉が襲い、現状の不満から打ち壊しが頻発した。政治では、外国が鎖国された日本に風穴を開け、尊皇攘夷の動きが高まっていた。

対比年表
尊徳歩み 西暦 国内の事件
  1782年 天明の大飢饉が起こり、全国で数万人(推定2万人)の餓死者を出した。
現在の神奈川県小田原市栢山に生まれる。 1787年
(1歳)
 
父、利右衛門が病気で倒れたため、代わりに酒匂川の土手工事に出る。(わらじ推譲の逸話) 1798年
(12歳)
 
松苗200本を買って、酒匂川の土手に植える。 1799年
(13歳)
 
菜種を撒いて、勉強するための油を得る。
捨てられた苗を植えて、一俵の米を収穫する。(積小為大の理)
1803年
(15歳)
 
小田原藩、家老服部家の財政建直しを引き受ける。 1818年
(32歳)
 
岡田波子と結婚。
小田原藩の年貢取立用の斗枡の改良をし、借金に喘ぐ藩士のために1500両の低利資金融資を藩主からとりつけ、「五常講」を創設。
1820年
(34歳)
 
小田原藩主、大久保忠真の命により、旗本・宇津氏所領の下野国桜町領の仕法開始。 1821年
(35歳)
 
一家を挙げて桜町領に移住し、実質的な建直しに取りかかる。 1823年
(37歳)
 
  1825年
(39歳)
幕府が外国船打払令を出す
桜町仕法でトラブル頻発し、成田山で断食修行。以後、円満に進行する。 1829年
(43歳)
 
  1833年
(47歳)
天保の大飢饉が始まる。
凶作を察し、ひえ・あわを作らせて飢饉に備える。 1835年
(49歳)
天保の大飢饉が全国に広がり、最大規模に達する。
小田原の飢民救済。
忠真卒去し、桜町仕法結了し引き継ぎ。
1837年
(51歳)
大塩平八郎が奉行所に人々の救済を訴えたが聞き入れられず、叛乱する。
  1839年
(53歳)
蛮社の獄。渡辺崋山、高野長英らが思想弾圧される幕府の政策を批判したために捕らえられ処罰された。
相馬中村藩(現在の福島県)で仕法開始。 1841年
(55歳)
老中、水野忠邦による天保の改革。
幕臣に登用され、尊徳(たかのり)と名乗る 1842年
(56歳)
 
日光仕法雛形完成。江戸で発病する。 1846年
(60歳)
 
日光神領建直しに取りかかる。 1853年
(67歳)
ペリーが浦賀へ来航し、開国を要求する。
10月20日永眠。 1856年
(70歳)